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●情報のデザインから関係性のデザインへ

2005/05/27 (金) 21:00 | 駄文

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デザインというのは、一つの完成した具体的な形ですが、私の仕事は、プロセスに関わることです。ドイツの場合、デザインや色の再現に関して、システムやルールが厳格に決められます。これはある意味大事なことなのですが、日本の場合には、情緒性からくるルーズさ、余白の部分がある。これは悪い意味ではなく、逆にそこに可能性を感じます。そこに新しいデザインが生まれてくる可能性があるのではないかと。
情報デザインという言葉が極めて便利に使われていますが、改めてその意味を問うと意外に曖昧だったりします。私自身は情報デザインという言葉を使うことに、幾分か疑問を感じているのは、情報もまたデザイン化されたもので、何らかの意図や表現的なものが含まれています。そうすると、情報デザインという言葉は、デザインのデザインみたいな二重性を帯びた言葉になります。
私自身は、リレーショナル・デザインという言葉を使いたいと思っています。情報の伝達にはさまざまな関係性があるからです。そうした関係性をデザインすることが必要ではないかと思っています。

●オーソドックなスタイルが既成の文法を覆す

2005/05/27 (金) 20:02 | 駄文

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ぼくの現在の立場は、アートディレクターというよりもクリエイティブディレクターに近いわけですが、ぼくのやり方は極めてオーソドックスであり、正統的だと思っています。
たとえば、ホンダの「ステップワゴン」の場合も、まず「ステップワゴン」とは何かを考えました。開発の経緯や、存在の意味のような本質的な問いかけから始まります。
そうすると、子供と一緒にどこかへ行くための車じゃないか、家族のための車じゃないか、そんなど真ん中の答えが返ってきました。そのど真ん中の直球のような答えにぶつかったら、今度はそれを鮮やかに新鮮に提示できる方法を考えるわけです。それが夢を運ぶ素敵な車というコンセプトにつながっていきました。表現コンセプトが明確だったから、新たにコンセプトを変える必要がなかった。それが長く続いている理由じゃないでしょうか。

●自分だけのデザイン観をつくる

2005/05/23 (月) 22:08 | 駄文

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デザイナーはある種の説得業で、自分の考え方がいかなるものであるかを世の中に発信し続けなければなければならない。デザイナーは、基本的に社会の中で自分の名前で立っている、個としての存在である。その個に対してどういう仕事が来るかは、モノの考え方をどのように社会に伝えてきたかにある。
最初にひとつ言っておきたいのが、あまりすべての話を鵜呑みにしないで欲しいということ。いつも私は、デザインの話をしてそれが他人に歓迎されること、平たく言えば「ウケる」ことにどこか後ろめたさを感じている。仕事ができるデザイナーというのは、それだけ自分の仕事を他人に話す能力に長けているものである。そういうデザイナーが来て自分のデザインを話すのは、まるでエンターテイナーが来て観客相手にショーでもやっているかのように感じることがあるのだ。それをただ面白がっているだけでは、情報を消費しているだけである。話の背後にある矛盾や、自分だったらどうするかをリアルな想像をもって聞くことが、先を目指す為の良いトレーニングになる。何よりも大切なのは、自分自身のデザイン観をつくることなのだから。
「情報の建築を作るのがデザイン」「感じ方をデザインする」
デザイナーは「デザインを通して受け手の頭の中に情報の建築を作っている」と考えています。視覚、触覚、聴覚など様々なチャネルを通して入ってきた情報が頭の中に蓄積され、建造物として構築されていくイメージです。
触覚一つとっても、指先でなぞった触覚と、手でドアノブを押したりするときの腱とか筋肉で感じられる触覚はまったく別物ですよね。そう考えると人間の「センス」は無数にあるのかもしれない。とにかくそれが僕らの仕事のフィールドだとすると、パソコンのモニターの中で視覚的に作業しているだけでは情報としていかに偏っているかということを念頭に置いて、これからお話しする私の仕事を見てください。
竹尾は紙のHAPTICな豊かさを世の中に供給する会社であり、封筒や名刺のひとつひとつを通じてそのメッセージを伝えている。ペーパーショーは、竹尾のマーケティングの一環であり具体的なブランドイメージを発信する場であるとともに、竹尾自身がデザイナーとともに新しい使い方を実験する場でもある。今年4月のペーパーショーは、「HAPTIC」というテーマで展開した。
HAPTICとは、触覚を喜ばせるという意味を持つ。普通は、ものを作るモチベーション(動機付け)は形だが、今回は触覚から発想してもらい、視聴覚以外のメッセージの重要性を明確に意図した。形からでは発想できない、感覚を総動員して感知していく展覧会となった。

●行為と相即するデザイン

2005/05/21 (土) 00:58 | 駄文

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この観点に立って深澤氏は近年、「行為と相即するデザイン」というコンセプトを打ち出しています。「これは行為にデザインが溶けてしまうという意味。噛み砕いて言えば“はまってる”ということです」。
そこで重要になってくるのが“Active Memory”であると深澤氏は言います。「それは、日常的には意識していないにも関わらず、みんなが共有している身体的な記憶のことです。たとえば、小指の先をちょっと怪我しただけで、妙にコーヒーカップが持ちづらいということがある。普段は意識しないが身体は知っている小指の重要な機能を、このとき初めて意識するわけです」。
「デザインは“必然”であって、僕たちが作り出すものではないという気がするんです。僕がデザインをするときに一番大切に思っていることは、自発的に何かを作ろうという意志よりも、既にみんなが共有しているものを見つけ出して、それを具体化していくという感覚なんです。だからそれは、自分の個性とか主張ではないと思っています」。
意識的であることが美からもっとも遠い。
最後に、俳人・高浜虚子が主張した「客観写生」という概念に触れました。
「ある心情を表現するために俳句を詠むのではなく、そこにある現象を客観的に詠まなければならない。その結果として詠む人の心情についても、暗黙の同意のようなものが生まれるということです」。
デザインについても同様、と深澤氏は言います。「自分で自発的に作るのではなくて、既に合意されたものを探して、その存在のリアリティを伝えることのほうが意義があると感じています。自分がこうだと主張する態度は、あまり美しいとは思えないんですよね」。